“東京の空”の下で

音楽をこよなく愛するおばちゃんが日々の出来事をつらつらと綴ります。

ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜@BS朝日

私は昨日小田さんが出演した
記事を書きましたが、
その“100年インタビュー”が放送される前日、
3月19日にこの番組が放送されました。

インタビューゲストは財津和夫さん。
インタビュアーは映画監督のヤン・ヨンヒさん。
ヤンさんはチューリップファン、
財津さんとお会いできるのを
本当に楽しみにしていたそうです。

番組は生い立ち、音楽との出会い、
チューリップ時代、解散後のソロ活動、
チューリップ再結成と
財津さんの歩んできた道程を
ヤンさんのインタビューから
語られていく構成になっていて
100年インタビュー”とよく似ています。

幼少期やビートルズとの出会い、
バンドを組んでコンテストに挑戦したこと、
(この時赤い鳥とオフコースが練習しているのを
偶然見かけ、度肝を抜かれた話もありました)
上京後プロデビューはしたが
レコードセールスはパッとせず
「これがダメなら尻尾を巻いて福岡に帰ろう」と
決めてリリースした“心の旅”がヒットしたことが
財津さんの口から語られていきます。

その“心の旅”で意外な話が。
この曲のリードボーカル
姫野達也さんが担当しているのですが、
それはレコーディング当日に
事務所側のリクエストによって
決められたものだったそうです。
リードボーカルの経験がほとんどなかった
姫野さんは「急に言われても…」という
感じだったそうですが、
結果的には曲のイメージと
姫野さんのボーカルがぴったり合ったことが
(ヤンさんいわく「姫野さんの声は
クレームブリュレみたいに甘い感じ」)
ヒットに繋がっていったのでしょうね。
財津さんはこのことに
挫折感を味わったそうですが、
「僕は杓子定規な歌い方をしてしまうから」と
このことに納得しているようでした。

続けて語られるヒット後の苦悩。
常にヒットを出さなくてはならない、
「末っ子気質なのにバンドでは長男」を
つとめなくてはならない、
そんな数々のプレッシャーから
メンバーにも厳しい姿勢で臨んでしまい
それが元でメンバーが次々と脱退、
1985年にはオリジナルメンバーが
財津さんただひとりに。

「精神的にやられました」

それでもチューリップを解散せずにいたのは、
…そう、オフコースの存在があったからだと
財津さんは言います。

「“オフコース”ってのがいまして、
これがまたもうね、
ある意味“目の上のこぶ”でして(笑)、
なんで追い抜けないんだろう、
なんで双璧にならないんだろう、
なんで向こうは都会的でおしゃれで
チューリップはダサいって言われるんだろう、
まぁ、そこんとこはしょうがないけど、
バンド年齢だけは負けないように
しようと思ってたんです」

そして1989年、
財津さんはオフコースの解散を知ります。

「重い荷物が全部降りたような…
俺たちも解散できるよ、
これで…そう思いました」

オフコース解散の約4ヵ月後、
チューリップは解散します。
その時財津さんは何を思ったのでしょうか。
苦しみからの解放なのかな。

解散後のチューリップは数度の
期間限定再結成を行なっています。
姫野さんが「やろうや〜」と
声をかけてきた時、
財津さんはメンバー脱退時を思い出し
かなり躊躇したそうですが、
その頃を乗り越えてきた者どうし、
楽しく音楽活動をしているようです。

財津さんは「双璧にならない」と
言っていましたが、
オフコースとチューリップは
1980年代を牽引したバンドであることは
間違いないはずです。
一時代を築いたバンドとして
私たちの心に深く刻み込まれています。

これからも楽しく、
ステキな音楽を送り出してくれることを
心から願っています